2015年9月6日日曜日

私の子供時代の振り返りと反省①―臆病な自尊心

協調性がないとか、コミュニケーション能力が低いという言葉は、
具体的なイメージを生まない曖昧なものです。
この記事においては、
具体的にどういう生活を送っていたか書いてみたいと思います。
自分の過去について振り返るというのも悪くないことでしょう。
私の記憶では幼稚園の途中辺りまでは、
ある程度社交的だったような印象があります。
ところが、なんらかの事情によって、
幼稚園の途中辺りから、
人付き合いを嫌う人間になっていたようです。
その原因が何だったのかという点は明確には分かりません。

小学校時代は3、4人の友人とは仲が良かったですが、
それ以外の人々には閉鎖的な態度をとっていました。
小学生という段階であれば、個性の細分化が進んでいないため、
浅く広い交友関係を築きやすい傾向があるはずです。
しかし、私の場合はそうはならなかったんですね。
今から考えるともっともらしい理由も思い浮かびます。
一つの候補としては、運動能力の低さが挙げられます。
子供社会においては、
体を動かす活動が中心的になるものです。
そのため、運動神経に劣る子供は、
社会に加わることに抵抗を感じがちなのかもしれません。

しかし、よく考えてみると、
運動神経が悪くても社交的な子供という例も存在していました。
すると、運動能力の低さ以外の要素が探す必要がありそうです。
すぐに思い浮かぶ要素が一つあります。
それはプライドの高さ、あるいは見栄を張る程度です。
自分の弱い姿を見せることを苦痛に思う人間は、
社交性を失いがちです。
それは、自分の弱さを見せなければならない場面において、
人付き合いを避けるようになるからであると考えられます。 
子供時代の私は、ゲームや読書などを好んだものです。
ゲームはいつの間にかやらなくなりましたが、
読書のほうは今も続いています。

私は考えながら記事を書いていくタイプなのですが、
(書き終わる頃にタイトルを変更することも少なくない)
図らずも今回の記事においては、
行き当たりばったりの思考が核心的な側面に達したようです。
高校の教科書に出てきた、
中島敦の『山月記』が思い出されますね。
『山月記』の主人公である李徴は、地元では鬼才と呼ばれるほど才気のある人間です。
彼は詩人を目指しているのですが、自分の才能が本物ではないことが露呈することを恐れて、仲間と切磋琢磨することを避けます。
単純に言ってしまえば、プライドが高いのでしょう。
しかし、そのプライドの高さには、自分の才能に対する不安が伴ってるわけです。
だから「臆病な自尊心」ということになるんですね。
「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」という言葉は、
非常に巧みな表現であるように思われます。
 
あの作品で語られた、臆病な自尊心と尊大な羞恥心という概念は、私の精神にも多分に含まれているようです。
もっとも、そのような傾向というのは多かれ少なかれ、
万人に共有されているものかもしれませんが。
私はその中でも多いほうに分類されるのでしょう。
もっとも、李徴のように鬼才扱いされることはありませんでしたが。

臆病な自尊心を抱えると、
苦手分野の欠点がより深刻化されていくように思われます。
不得意なことであってもやれば多少は改善されていくものですが、
やらなければますます他人との差が開いていくからです。
一種の悪循環ですね。
そのような悪循環の結果として、
コミュニケーション能力と身体能力に問題を抱える、
私のような人間が出来上がったわけです。 

ややこしい分析などしなくとも、
単純かつ明白な対処法が思い浮かびます。
それは、恥を忍んで低いレベルから鍛えていき、
やがてはある程度の熟達を狙うというものです。
小さな成功体験を重ねることが自信につながるのでしょう。
成功体験の積み重ねは、好循環につながります。
まぁ、言うは易しというやつですね。
問題は実際に行動に移すということです。
行動の重要性を指摘するこの言い回しも、
何度書いたか分からないぐらい使っている気がします。 
どうも私という人間は、
同じような結論の思考をわざわざ繰り返しているようですね。
しかし、行動を全くしていないというわけではないのです。

中学時代は、幽霊部員で数少ない友人と、
相変わらずゲームや読書に勤しんでいましたが、
高校時代には部活動に参加しました。
ある程度体育会系っぽい雰囲気のある部活動です。
高校生なりに、
自分を改善させていく必要性を感じていたのでしょう。
今まで、集団行動的な活動を避けていた私にとっては、
部活動の人間関係はかなりの苦痛を生むものでした。
慣れない環境に長時間置かれることになったわけですから、
ある意味当然のことと言えるかもしれません。
部活動終了後に先輩と帰り道で会った際に、
こういう時どういう言葉をかけるものなのかと尋ねた記憶が、
妙に鮮烈に残っています。
夕方の線路沿いの道でのことでした。
 
しかし、時が経過していくとともに、
下手なりに人付き合いがマシになっていき、
参加してみて良かったと思うようにもなりました。
友人は相変わらずかなり限られていましたし、
普通の人と比べると低いレベルなのですが、
過去の自分と比べたときの成長は、
細やかな自信を与えるものでした。
こう書くと、
その後の人生がうまく行きそうに見えるのですが(見えないか)、
結局その後も臆病な自尊心を抱えていくことになります。
 
思ったより長くなったので、ここで一区切りとします。

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